子育て日記 その4


 だいぶ前のことになってしまったが、第一稿で教育の前に子供を守らねばと言うことを書いた。その思いが募るので、うるさいようだがまた触れる。

 「死にたい」というから母も殺した。マンションの管理人宅の事件があった。「こらしめてやってくれ」というから殺した。大学生二人が金物屋を殺した事件を聞いた。幼い娘を殺して、自分はネットで集団自殺。−−−子供を巡る事件を数え上げれば枚挙に暇が無い。子供が加害者であろうが被害者であろうが聞くたび胸が痛む。国語や算数の教育を論じる前に、どうしても子供を守る社会がいる。

 少々話がそれるが、私の学生時代はまだのんびりした時代だった。それでも受験戦争と言われた時代ではあったので、中学校では国語、数学、英語は主要3科目と言われ力が入れられた。高校受験が主要3科目だけだったことによる。学校ではその3科目だけが重要だという雰囲気があり、理科はその次、社会科はまたその次といった風潮が先生からも伝わってきた。

 しかし、実社会に出てみるとどうだ、「5番目」の社会科の範疇にある政治経済が大きく幅を利かせているではないか。技術立国日本にあっても、理科より「政治とカネ」だということに直面した。それならそうとせめて高校時代に言ってくれと思う。そして普通科高校で簿記くらい教えたらどうだと思うのだ。微分積分を学ぶよりずっと実社会で役に立つ可能性は大きい。教育と実社会で役に立つことの不整合だ。

 さらに、今、現実社会を見つめるとどうだ、人命を軽視し自己の欲求をコントロールできない輩が氾濫した。これは、国語や算数、さらには音楽や美術よりさらに軽い「最下位」に位置づけられた「道徳」教育ができていないということではないか。

 人づくり軽視の風潮が、基礎的な道徳観のない成人を生産した。そのツケが今の社会を作っている。過去において、教育者を含む日本の大人は、「安全と水はただ」という治安の良い日本においては、基礎的な道徳観は子供たちが呼吸するごとに身につくものとたかをくくり、それは未来永劫続くと信じていた。それよりも高度に成長する社会に適応させるために主要3教科、5教科に傾注したのだ。結果、道徳はおろそかになり忘れられた。これも、社会の要求と教育内容との不整合だと言いたい。

 学校で道徳教育でやるべきかどうかと議論はあるだろうが、その役割は家庭にあるか否かに関わらず学校は背負うべきだと思う。その理由の一つは、「道徳」が、すでに社会生活の中で自然に身につくものではなくなっていて、基本的に知識として学習させねばならないことであるため。もう一つは、すでに生産してしまった道徳観の薄い、または多様な道徳観を持ってしまった大人達にそれぞれの家庭での画一的道徳教育など期待できないからだ。

 その基本的な知識として学ばせる道徳たるものは、それほど難しい訳ではない。ひねくれた大人に教育するわけでも、思春期の青年に言い聞かすわけでもない。まだ素直な純心な子供を前に座らせて、「人は殺してはダメだ」「傷つけてはダメだ」「物を盗ってはダメだ」「いじめてはダメだ」「子供を虐待してはダメだ」「自殺するな」…と画一的に教育することだ。こんなことだ。こんなことがやられていない。だから、一人一人に繰り返し教育せねばならない。現実に対して整合のある教育をせねばならない。たとえ一端は学力が低下するようなことがあったとしても、教育の最上位に道徳を引っ張り出して、子供を守る次世代の社会基盤を作らねばならないと思う。

 


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