徒然日記その112. 偏差値の問題点  (9/10)

 偏差値が高いとか低いとか。受験を経験すれば必ず耳にする言葉だろう。しかし、この偏差値ほど理解されないで使われている数値も珍しいと思う。

 そもそも偏差値とは、統計に使われる考え方である。この偏差値をテストの成績評価に使うと便利なことに気付いた日本人がいた。例えば自分のテストの得点が70点だったとしよう。点数だけでは、良い成績なのか悪い成績なのか客観的な判断ができない。みんなの平均点が90点もあれば平均以下の悪い成績だし、みんなの平均点が40点しかない難しいテストだったなら、なかなかの好成績である。そこで偏差値を使って評価する。平均点がちょうど偏差値50になるように数学的に処理をする(得点分布を正規分布曲線=ガウス曲線に当てはめる操作をするのだが、詳しくは省略)。こうして偏差値を使えば、自分の成績が、みんなのなかでどの位置にあるがが客観的にはっきりわかる。だから毎回のテストの難易度が違っていても、みんなのなかで、自分の成績が上がったか下がったかをはっきり知ることができるのだ。

 このように偏差値は大変便利なものである。さらに、偏差値が使われ始めた頃、国公立大学の入試に共通一次試験が導入された。国公立大学のほぼ全部の受験生が共通の試験問題を使う受験方式である(これは今でも「センター試験」と名を変えて続いている)。

 その結果、何が起こったかというと、大学の序列化である。試験はマークシート方式による客観テストだから、「自己採点」が簡単にできる。この自己採点データをかき集めて、さらに受験生の合格・不合格も追跡すれば、受験生みんなのなかでどれくらいの偏差値の者がXX大学に合格したかしなかったかがはっきりする。つまり、その大学の合格ラインが偏差値ではっきり分かるのだ。だから、大手予備校や模擬試験業者はしゃかりきになって自己採点データと合否追跡を行ったし、今でも行っている。また、模擬試験での偏差値とつきあわせることで、合格可能性を統計的に予測できるようになった。

 これはこれで便利になったのであるが、受験生自身にも序列意識を生み出してしまったようである。「XX大学に行きたい」と言う受験生が減り、「偏差値XXくらいの大学に行きたい」と言う受験生が増えた。この偏差値病ともいえる序列意識は相当根深いものとなったようで、大学の優劣までを偏差値で語る受験生や受験関係者が現れた。偏差値の高い大学の卒業生は偏差値の低い大学の卒業生に対して優越感を持ち、逆のケースでは劣等感をもつ場合もあるようだ。試験における偏差値(=学力)なんて、ひとつの尺度に過ぎないわけで、それがそのままその人の人間性の優劣になるなんて馬鹿げたハナシなのであるが、なにせ他に比較に使える客観的データがないので、そうなってしまったように思う。これも、確固たる自我を確立できない日本人をよく表した出来事なのであろう。

 さてさて、前置きが長くなったが、今回のテーマは、この「偏差値の落とし穴」についてである。前にも書いたとおり、偏差値は「みんなの中でどれくらいの位置にあるか」を示している。この「みんな」を統計用語で「母集団」という。つまり、母集団が変われば偏差値も変わってくる。レベルの高い生徒ばかりがうけた模擬試験(=母集団のレベルが高い)では自分の偏差値は低く出るだろうし、そうじゃないテスト(=母集団のレベルが低い)では自分の偏差値は高く出るだろう。だから、母集団の違うテストでの偏差値を比べることには何の意味もないのだが、それを分かっていない人間のなんと多いことか。意味も知らないでよく使うものである。笑うのを通り越してあきれてしまう。

 さて、ここまでは一般的なことをまとめたのであるが、偏差値にはもっと大きな落とし穴がある。これは最近言われる学力崩壊の一因にもなっていることである。偏差値は母集団の中での自分の位置を示す。その結果何が起こったか。「自分のレベルが下がっても、母集団も同じようにレベルが下がっているから気付かない」のである。日本の学生の学力レベルがじりじりと確実に下がり続けていたのに、偏差値による学力評価のために多くの人は気付かなかったのである。これは相対評価の通知票にも言えることだ。全体のレベルが下がっているから、自分のレベルが下がっていても通知票の評定は変わらないのである。現場で長年教えている先生方は気付いているはずだが、当の本人や保護者は気付かないのだ。高校入試でも大学入試でも気付かない。一生気付かないまま過ごせれば、それはそれで幸せなんだが世の中そんなに甘くない。実社会に出てみて初めて、自分の力の無さに気付くのである。さてさて、この先どうなるんでしょ?

 


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